今日も農耕的に仕事をした。
●掲示板にも書いたけど、本日、3月15日はH.P.ラヴクラフトの命日である。命日を記念して何か、面白いサイトでも紹介できないかな、と思ったけど、そういうことはワタシより皆さんのほうが詳しそうだ。
●そこで「真ク・リトル・リトル神話大系」「定本ラヴクラフト全集」の企画・編集者として、また「ウィアード・テールズ」「アーカム叢書」の企画者として何か思い出でも…と考えたが、それは多すぎて、とても書ききれない。困ったものである。
●で、まあ、色々と検討してみましたが、ここでは「ケイトさん通信」も連載(?)していることでもあるし、構わないだろうとアバウトに思いまして、 ここに若きラヴクラフト学徒・竹岡啓氏の書かれた小論文「ロバート・H・バーロウ小伝」をご紹介することにした。(ラヴクラフトの詩も同時掲載した。この詩は「定本」全集に収録されていない“本邦初訳“である) ちなみにバーロウとは誰か、なんとラヴクラフトの知的遺産の全てを生前譲られた正式な「著作権代理人」なのである。「えっ、ダーレスではなかったの!?」と今、驚いたあなた、すぐに以下の竹岡論文をお読みなさい。そして、お友だちのラヴクラフティアンに、この論文のことを教えておあげなさい。「目ウロコ」がいっぱいです。では、「ラヴクラフト命日記念」にこの小論を──謹んで宇宙の虚無へと回帰せる我等がグランパに捧げます。
───────────────────────────────────── ロバート=H=バーロウ小伝 竹岡啓
1918年5月18日、ロバート=ヘイワード=バーロウはカンザス州レヴンワースで エヴェレット=D=バーロウとバーニス=バーロウの間に生まれた。彼の父エヴェレット は米国陸軍の中佐で、一家は何度か引っ越しをしてジョージア・フロリダ・ワシントンな どに住んだらしい。 バーロウがラヴクラフトと文通を始めたのは1931年のことである。1932年には オーガスト=ダーレスとの文通が始まった。1934年、ラヴクラフトはフロリダを訪問 してバーロウと対面し、彼がまだ15歳にすぎないことを知って驚いた。ラヴクラフトの 滞在中にバーロウは16歳の誕生日を迎えた。CthulhuはKoot-u-lewと発音するのが正し いとバーロウはラヴクラフトから教わったそうである。ラヴクラフトはCthulhuをクトゥ ルーと発音していたとダーレスが断言したのは、バーロウの証言を信用したからに他なら ない。 ラヴクラフトと彼の友人たちは1935年の新年をニューヨークで共に迎えたが、この 集いにはバーロウも参加した。ラヴクラフトはエリザベス=トールドリッジ宛の1934 年12月29日付の手紙で次のように述べている。「バーロウはクリスマスの日に到着し ました。かなり豪華な102番街のホテルをロングが彼のために見つけてあげたので、そ こに泊まっています。あの子は宿の好みがとても贅沢なので、私のような安上がりな旅行 はできないのです! 私の予想通りバーロウとロングは意気投合しています」 ラヴクラフトとバーロウはフランク=ベルナップ=ロングのアパートで1934年の大 晦日を一緒に過ごし、バーロウが自分で作った「ウルタールの猫」の私家版をラヴクラフ トはそこで受け取った。二人は午前3時まで滞在し、「海悉く涸れて」を合作した。この 題名はロバート=バーンズの詩「我が恋人は赤き薔薇」の一節を借用したものではないか とダニエル=ハームズは指摘している。1935年の夏、ラヴクラフトはフロリダを再訪 して2カ月間バーロウ家に滞在し、バーロウと一緒に小屋を建てるなどして楽しんだ。ラ ヴクラフトによると、バーロウは射撃の名手でもあったという。 1936年7月28日、今度はバーロウがプロヴィデンスを訪れた。家庭内のいざこざ を逃れてきたのだという。8月5日、妻の遺骨を散骨しにボストンへ行った帰りのアドル フェ=デ=カストロがプロヴィデンスに立ち寄り、ラヴクラフト・バーロウ・デ=カスト ロの3人は聖ヨハネ教会の墓地を共に散策した。この時ラヴクラフトは一編の詩を作った が、その詩は折句になっており、行頭の文字を拾っていくとEdgar Allan Poeが現れるよ うになっている。かつてエドガー=アラン=ポーが聖ヨハネ教会の墓地を散策したという 故事にちなんだものである(註1)。バーロウはそれから2カ月ばかりラヴクラフトのも とに滞在し、二人は「夜の海」を合作した。これはラヴクラフトの生涯最後の作品となっ たが、どちらかといえばバーロウの作品と見なすべきものである。ラヴクラフトは「夜の 海」が気に入ったらしく、「私が今までに出会った中でもっとも芸術的な作品のひとつ」 と賞賛している。常に謙虚だったラヴクラフトが自分自身の作品をこんな風に褒めること はあり得ない。ラヴクラフトにとっても「夜の海」はバーロウの小説だったのだろう。 最晩年のラヴクラフトは社会主義的な傾向を強めていたが、バーロウもまた社会主義者 だった。彼はクラーク=アシュトン=スミス宛の手紙で社会主義を宣伝したが、アナーキ ストを自認していたスミスはソビエト連邦に不信の念を抱いており、「資本主義・ファシ ズム・共産主義──どんな方式をとるにしても、人間の貪欲さと権力欲のせいで同じ不正 が世にはびこり、同じ悪事と悪習が生まれることでしょう。そうでなかったら、悪の形態 がちょっと違ったものになるだけです」と述べてバーロウに反駁した。 1937年3月15日にラヴクラフトは世を去った。彼の遺著管理者に指名されたのは バーロウだった。ラヴクラフトの叔母であるアニ=ギャムウェルはその指示に従い、3月 26日にバーロウは正式にラヴクラフトの遺著管理者となった。彼はラヴクラフトの書簡 を集めてブラウン大学のジョン=ヘイ図書館に寄贈し、それらの書簡を図書館に保管させ ることに成功した。 晩年のラヴクラフトともっとも親しくしていたのはバーロウだったといわれる。しかし ラヴクラフトが死んだとき、バーロウはまだ18歳に過ぎなかった。彼を自分の遺著管理 者に指名したラヴクラフトの意図は定かでない。バーロウはラヴクラフトの愛人だったの ではないかと憶測する人もいる。バーロウが同性愛者だったことは事実だが、ラヴクラフ トとバーロウが恋愛関係にあったことを証拠立てるものは何も残っていない。クラーク= アシュトン=スミスはドナルド=ワンドレイ宛の手紙で次のように述べている。「HPL が原稿の管理人としてバーロウを選んだ理由ですが、このことはきわめて容易に説明でき ると僕は信じています。自分の作品が商業出版の世界で日の目を見る見通しがあるとはH PLは考えていなかったに違いありません。ですから、ロングやラヴマンといった旧友た ちに原稿を任せようものなら、厄介な重荷を押しつけてしまうことになると感じたことで しょう。でも出版業に乗り気なバーロウならば、自分の作品を本にできる地位まで上り詰 めてくれる日があるかもしれないと感じたのでしょう。この考え方は理にかなっているよ うに思えます」 一方オーガスト=ダーレスとドナルド=ワンドレイはアーカムハウスを創設した。バー ロウがラヴクラフトの遺著管理者に指名されていたことを知らなかったワンドレイは、彼 がラヴクラフトの原稿や書簡を不当に私物化しようとしていると誤解し、それらの文書を バーロウから奪い返すための行動を起こした。ダーレスは二人の和解を望んだが、とりあ えず原稿を確保しておこうというワンドレイの考えに賛成し、弁護士を派遣することに同 意した。その弁護士は調査を行い、バーロウの行為に不正な点は見あたらないという結論 を出した。しかしワンドレイは納得せず、弟のハワード=ワンドレイと二人でバーロウを 非難して回った。バーロウはワンドレイとサミュエル=ラヴマンを訴えることまで考えた が、ロバート=ローンダスとドナルト=ウォルハイムに説得されて止めたという。 ワンドレイの作戦は功を奏し、クラーク=アシュトン=スミスがバーロウの敵に回って しまった。「もう手紙をよこさないでください。どんな方法であろうと、僕と連絡をとろ うとはしないでください。愛する親友の遺産のことで君があんな振舞をした後では、君の 言葉なんて一言も聞きたくないんです」という手紙をスミスはバーロウに送りつけ、これ はバーロウを打ちのめした。「この手紙の他にも同様の痛撃があった。敵愾心を燃やして いる一知半解のワンドレイ兄弟が元凶で、何年も続いた。それらがなかったら、新たな進 路には進まなかっただろう。はらわたを肉切り包丁で寸断されるような苦しみだったが、 結果的には私を益するものだったのかもしれない。今日なお私の傷は癒えていないが」と バーロウは後に回想している(註2)。 バーロウはカンザスシティ芸術大学とカリフォルニア短期大学で学んだ後、メキシコに 旅行したことによってメシカ文化(註3)の研究に関心を抱いた。彼はカリフォルニア大 学バークレー校の人類学科を1941年に卒業し、さらに博士号を取得した。当時バーロ ウと一緒に研究を行っていた人物にアルフレッド=クローバーがいる。メシカ帝国の版図 を正確に特定したことはバーロウの功績だが、これはメシカ文明の通史を書くという壮大 の計画の第一歩となるものだった。バーロウはラヴクラフトの本の出版をダーレスに任せ てメキシコに行き、若くしてメキシコ国立自治大学の教授となったが、ダーレスはアーカ ムハウスの経営方針についてバーロウに意見を求め続けた。なおワンドレイは1942年 に出征し、それ以後はアーカムハウスの事業に関与しなくなった。所詮バーロウはダーレ スほどの器ではなかったのだと酷評する人もいるが、それでも彼がラヴクラフトの遺産を 守ろうと真摯な努力をしたことには疑念の余地がない。S.T.ヨシは次のように述べて いる。「バーロウこそは本物の神童であり、個性的な人間だった。彼は怪奇小説を熱心に 蒐集していたが、出版されたものだろうと原稿のままだろうと、その真価を見抜いていた のである。ラヴクラフトのような無名のパルプ作家の原稿をバーロウがしきりに欲しがる ので、ラヴクラフトはいつもバーロウをからかっていた。だが、この子供っぽいといって もよい好みの背後に、もっと成熟した意識があることをラヴクラフトは感じとっていたの かもしれない。何ら値打ちがないように見えようと、文学作品を保存することの重要性に バーロウは気づいていたのだ。そして、とりわけラヴクラフトの論文をバーロウが用心深 く自分の手許に置いていたことは少しも不当ではない。今日のラヴクラフト研究の多くは まさしくR.H.バーロウの努力のおかげである」 バーロウはメキシコ国立自治大学からメキシコ市立大学(註4)に移籍して人類学科の 主任教授となり、ロックフェラー財団・グッゲンハイム財団・カーネギー研究所の資金援 助を受けながら研究を進めた。メキシコ市立大学でバーロウから教えを受けた人物にウィ リアム=バロウズがいる。しかし、バーロウは1951年1月2日に大量の睡眠薬を服用 して自殺した。まだ32歳だった。彼が同性愛者であることを種にした脅迫に耐えかねた のだといわれている。息子は森が好きだったから、森の中で眠らせてやってほしいとバー ニス=バーロウにいわれた同僚たちはバーロウの遺灰をデシエルト=デ=ロス=レオネス 国立公園の森に埋めて土と枯葉をかぶせた。バーロウと親しかったダーレスは「ルルイエ の印」にラヴクラフト・ロバート=E=ハワードと並べて彼の名を記し、卓越した詩人と してバーロウのことを称えた。ダーレスはバーロウの死の間際まで彼と文通していたが、 バーロウの没後は彼の母バーニスと手紙を交わし続けたという。メキシコでは1980年 代後半から90年代前半にかけて、メキシコ国立自治大学とラス=アメリカス大学が合同 でバーロウの著作集(全7巻)を刊行した。
〈註1〉この詩は国書刊行会の定本ラヴクラフト全集にも収録されていないので、ここで 紹介しておく意義があるだろう。
Where Once Poe Walked
Eternal brood the shadows on this ground, Dreaming of centuries that have gone before; Great elms rise solemnly by slab and mound, Arched high above a hidden world of yore. Round all the scene a light of memory plays, And dead leaves whisper of departed days, Longing for sights and sounds that are no more.
Lonely and sad, a specter glides along Aisles where of old his living footsteps fell; No common glance discerns him, though his song Peals down through time with a mysterious spell. Only the few who sorcery's secret know, Espy amidst these tombs the shade of Poe.
この地を永久に覆うのは影 過去の世紀を夢見る影 墳墓の傍ら 楡の巨木は厳かに聳え 過去の秘められし世界の上 高々と穹窿を成す あらゆる景色の周り 記憶なる光明が揺蕩い 枯葉は囁く 過ぎ去りし日々のことを 逝きて帰らざる音と景色を思う
独り物悲しく 亡霊は逍遙す かつて生きたる彼が足跡を印せし路を 凡庸の人は彼を眼にも留めぬ 彼の歌は 神秘なる魅力と共に時を経て鳴り響きたれども ただ僅かに魔法の秘密を知る者のみが 墓石の直中にポーの影を認む
〈註2〉こう書くと、ワンドレイは陰険な策士だったように思われるかもしれない。しか しワンドレイのしたことは悪意ではなく誤解に基づくものであり、ラヴクラフト の遺産を守ろうという彼の動機は純粋なものであったように思われる。晩年のワ ンドレイはアーカムハウスを訴え、この不可解な行為によって孤立した。しかし 高名なクトゥルー神話研究家であるスコット=コナーズによると、ワンドレイの 本当の目的はダーレスの子供たちを悪徳弁護士から守ることだったそうである。 彼の正義感と使命感もまた称賛に値するものだろう。 〈註3〉普通はアステカ文化と呼ばれるが、バーロウはこの言い方を好まず、メシカ文化 という用語を代わりに用いた。 〈註4〉現在のラス=アメリカス大学。
参考サイト
http://biblio.pue.udlap.mx/servicios/Porfirio_Diaz/barlow.html
http://members.fortunecity.com/moderan/nonfic/20thgothic.html
http://geography.berkeley.edu/ProjectsResources/Glyphs/Homepage/Project.html
http://www.brown.edu/Facilities/University_Library/publications/Bibliofile/Biblio24/time.html
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●どうだ、読んでしまったか(マルC 夢野久作)…驚いたでしょう。 まずは竹岡さん、有難うございました。今後も竹岡さんのワンダーで農耕的かつ地道な研究成果は、この「日記」か、「クトゥルーな話」にアップして参りますのでお楽しみに。(↓のページが「クトゥルーな話」よ) http://www.uncle-dagon.com/sub1.htm
●どうやら、胆石というのは日本の成人の二割くらいが持っていて、ストレスに晒され続け、坐りっぱなしの生活してれば、みんな罹ってしまうものらしい。コワイなあ。…しかし、そんなこと言うなら、ワタシなんかより先に他の××さんや△△先生のほうが先に胆石っている筈なのになあ。あああふ。明日はいよいよ超音波検査でごんす。嫌だよう。
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2004年3月15日(月)
No.250
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